「日本経済成長の風雲児 建築家 黒川紀章氏逝く」
黒川紀章氏:10/12 73才逝去1934[昭9] 愛知県出身京大工学部建築科[卒] 東大工学部
都市工学科大学院[丹下研究室]修。代々木のオリンッピク屋内競技場[丹下研究室に黒川あり]
日本初のメディア型建築家として国民に建築家の存在をパフォーマンスで知らしめた功績は大。
今年1/21、六本木に国立新美術館開館。[東大生産技術研究所跡地―旧近衛師団] 巨大な
竹編籠をガラス表現の外観で、美術展示場としてオープン。n落しに設計者の黒川紀章
展が行われていた・・・・彼の建築家としての最終章「自然との共生」を見た。
カザフスタン新首都アスタナ計画[1998指名国際コンペ優勝]→ソ連から1991年独立。 イシム
川一帯、春は雪解け水が地下水となり氾濫湿地帯に、渇水期には川は消え、開発されずに今
日に・・・これが草原の砂漠化に繋がっていると言う。この地域に大規模な調整池をつくり
年中水を湛え、防風林の森をつくり生態系の再生を目指した運河中心の都市にする構想だ。
中国河南省鄭州鄭東新区計画[指名国際コンペ優勝]→350万の旧都市に新な150万都市を
計画。街を流れる河は都市排水で汚染、ここを浄化再生し、既存養魚池集団地の地下水を利
用して人口湖を河に隣接させ恒久的水不足を解消。この湖に環状都市をW新都心として開
発し運河で結ぶ。運河を中心に生態回廊[山の生態系と川の生態系の共生]を計画する構想。
[2010年に一部完成] 今や先進国では、車中心の都市の失敗が言われだしているなか、運
河の再生で船と歩行[自転車含む] 空間を大切にした「自然と共生の都市づくり」の必要性
が叫ばれてきている。氏の都市計画、100年先を見越したもので今こそ必要な見識・・・・再認識
帰新幹線中都知事選立候補知。政治家は賤業[賤しき生業]身分地位低い生て行く為の仕事
北野幾造氏 56才で死去1928[昭3]旧綿内村出身信大工学部機械科[卒] 日大理工学部
建築科[卒]・・・・昭和29年[1954] 国際建築会議から第1回建築学生会議ローマ大会参加の
招請状が日本建築学会へ。日本代表に北野氏が選出。テーマ「現代建築と国民的伝統」、帰国
後、建築学会が京都大学で報告会開催、その場に学生の黒川紀章氏がいた。賛同した黒川氏
と北野氏を中心に日本での学生会議を組織し昭和30年第一回総会が全国50大学参加し開催,
この努力が認められ、昭和33年[1958] 国際建築会議 第5回建築学生会議レニングラード大会
[現サンクトペテルブルグ]開催国のソ連から日本建築学生会議に招請状。黒川委員長代表出席となる
も資金不足。急遽長野へ、結核療養中の北野氏に相談。北野氏は建設会社を経営する兄に援助
資金捻出を依頼、提供となり晴れて建築学生会議に出席。レーピン大学で開催会議、議長として
27カ国の大学生130人を取りまとめ「都市と建築の未来像」について議論。ロシア革命による
建築の未来にアバンギャルド[前衛的]的新鮮さの刺激を受け感動し帰国[スターリンは若手建築家の
前衛的活動を危惧し以後活動を抑制]・・・・国内若手建築家の議論に刺激と夢を与え、建築に
青春を翔け後に有機的に代謝する都市論を提唱[メタボリズム・グループ結成] 1960 26才で建築家
デビュースタート。氏は建築設計事務所活動の傍ら社会工学研究所設立、北野氏[JC、ロータリーで活躍]
らと全国行脚し市街地開発を訴えた。長野でも講演。
昭和40年代。[5年後の長野を考える:有名建築家来長講演]…今日のもんぷら・TOIGOの再開発へ。